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B-A: 歴史・歳時記・風土記

B-A: 「歴史・歳時記・風土記」の内容

 「歴史・歳時記・風土記」では、そばの歴史やそばに関する諸々の話題、そして地方のそばについての話題などを載せていく予定です。サブテーマを列挙しますが、順次内容をアップしていきます。
 
 サブテーマ 
 
B-A-1:そばの歴史
B-A-3:蕎麦屋
B-A-4:郷土のそば(工事中)
B-A-5:そば用語(工事中) 
B-A-6:そばに関する格言(工事中)
 

B-A-1 ≪そばの歴史≫

  ソバの原産地は、1980年代から2000年代に行われた植物学者の大西近江らの集団遺伝学的研究により、中国南部の雲南省が原産とされました。日本には縄文時代中期に中国雲南省周辺から伝わったとされています。高知県内で9000年以上前の遺跡からソバの花粉が見つかり、当時からソバが栽培されていたとも考えられています。さいたま市岩槻区でも3000年前の遺跡からソバの種子が見つかっています。「蕎麦」が初めて、歴史的文献に上ったのは、797年に完成した史書『続日本紀』にある記述が最初です。奈良時代前期の女帝だった元正天皇(680~748)が出した詔の中に、次のような「蕎麦」の記述があります。「今年の夏は雨がなく、田からとれるものがみのらず、よろしく天下の国司をして、百姓(おおみたから)を勧課し、晩禾(ばんか:稲のこと)、蕎麦及び小麦を植えしめ、たくわえおき、もって救荒に備えしむべし」。 
 
  ソバはタデ科の1年生植物で栽培種の普通ソバと韃靼ソバ、野生種の宿根ソバに分かれ、日本では主に普通ソバを食べています。実の殻を除き、実の中に含まれている粉から‘そば’を作ります。種まきから収穫までは2~3ヶ月と短く、荒涼とした土地でもよく育と言われます。ソバは、日照りや冷涼な気候にも強く、また栽培する土地もさほど選ばないため、凶作の時も収穫が見込める救荒作物として位置づけられたのです。
 
  日本では普通と思われている「そば切り」(包丁で切った麺状のそば)は、実は世界で唯一の調理法です。他の国では粥・餅・焼き菓子・押し出し麺・そばがきとして食べるのですが、切り蕎麦だけは日本独特のものなのです。江戸中期の俳人だった森川許六(1656~1715)による1706年刊の俳文集『風俗文選』では、「そば切り」の発祥地が次のように伝えられています。「蕎麦切といっぱ(というのは)、もと信濃国本山宿より出て、普く国々にもてはやされける」。本山宿は中山道の宿場の1つで、今の長野県塩尻市内にあります。1706年の時点では、すでに「普く国々に」広がっていたようです。では「そば切り」の誕生はいつ頃、誰によってなされたのでしょうか。実はその起源は今も謎のままでですが、1992年には、長野県の郷土史家である関保男氏が、県南西部にある大桑村の定勝寺という寺で1574(天正2)年にしたためられた「定勝寺文書」の中に、「ソハキリ」(そば切り)の文字があるのを発見して発表しました。「振舞ソハキリ 金永」。これは、定勝寺の仏殿修理の落成祝いとして贈られた品物と贈答者の名前で、そば切りを「金永」という人物が献上したことを示しています。そば切りは16世紀のいつ頃かに誕生したものと考えてよさそうです。江戸時代に入り、17世紀から18世紀頃には、そば粉に“つなぎ”としての小麦粉を混ぜるそばの製法が打ち立てられたとされています。その後十割(とわり)から二八・三七・半々・外二・外一などの小麦粉の割合が工夫されていきました。
 
  江戸の麻布永坂町では、江戸暮らしをしていた信州の行商人の清右衛門が1789(寛政元)年、「信州更科蕎麦処」なる看板を掲げました。「更科(さらしな)そば」は、ソバの実の中心のみを挽いた白い上品なもので、信州からの直売を売り物にし、江戸中で受けたと言われています。一方雑司ヶ谷鬼子母神門前や本郷団子坂では「藪そば」が誕生しました。こちらはソバの実の甘皮の色を入れた薄緑色のそばです。更科そばや藪そばを出すそば屋の誕生以来、大江戸中にそば屋は広がっていき、1860(万延元)年には江戸府内のそば屋は3763店を数えたといいます。
 
  そばの食べ物としての位置づけも、飢饉をしのぐ「救荒食としてのそば」から、縁起のよい「ハレの食品としてのそば」に変わっていきました。晦日に食べる「晦日そば」や、大晦日に食べる「年越しそば」の習慣が庶民に定着したのは江戸時代中期と言われます。もともと、金銀細工師が、飛び散った金粉・銀粉を、そば粉を使って集めていたことから、縁起をかついで掛け金の回収前にそばを食べるようになったと言います。そのげんかつぎが晦日や大晦日にそばを食べるという習慣として広まったという説もあります。いかにも江戸っ子らしい、粋な縁起かつぎですね。また、引っ越しの挨拶に「そばに参りました」の意味を込めてそばを贈る習慣も江戸時代に起きたとされます。これは現代でも「引越しそば」という名称で残っていますが、現代では引越し作業が大変だから、食事はそばで間に合わせておこう、というような意味になっているように思われます。
  こうして麺となったそばは江戸の人びとに愛され、縁起物になっていったのですが、それにはもう一つ理由があるという説もあります。それは江戸では武士階級の人が白米を食べるようになった結果、脚気(かっけ)が流行し、そばを食べている庶民にはそれが無かったということから、そばが健康に良いと認識されたというのです。
 
 

 

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B-A-2 ≪加工そば・インスタントそば≫

 古来からそばも乾そばという形に加工されてきたと想像されます。それは‘麺’という加工されたものが日本に生れたのが、中国との遣唐使の往来からもたらされた索餅(さくべい)というねじった餅のようなものから素麺(そうめん)が生れたのが最初であると考えられているからです。そして素麺が日本で最初の麺類となりました。索餅の具体的な形状は分かりませんが、文献からは小麦粉と米粉を練って捻じった縄状の形から名が付いたと想像されます。乾燥していたことから、これを戻して食べたと思われます。奈良県ではその名残が「しんこ」と呼ばれる団子状の菓子として残っているそうです。索餅はすでに平安時代にはかなり普及していたことから、平安時代に中国からもたらされた索餅がその起源であることははっきりしています。
 切り蕎麦が出来たのが江戸初期(16世紀末から17世紀初め)と言われていますから、切り蕎麦誕生と同時に乾そばも誕生しただろうと思います。そして当然のことですが、それは茹でて戻して、生めんと同様の食べ方がされたのでしょう。現代でもそれは変わらず、乾そばも生そばも茹でて食べるのは同じです。ですが、索餅の食べ方は様々であったかもしれません。これは現代でも各地の神社で神饌として供えられるものの中にあるようです。 『延喜式』によれば、他にごま油で和えたり、ゆで小豆に付けて食べたとみられています。醤油や酢に付けて食べたかもしれません。
 
 技術革新の現代になって、1953(昭和28)年に村田製麺所(現・都一株式会社)の村田良雄がインスタントラーメンの原型である屈曲乾麺製法を発案し、1955年には松田産業(現・おやつカンパニー)が「味付中華麺」を即席麺製品として開発したことから一気に即席めん開発が進展し、1958年には日清食品創業者の安藤百福が、瞬間油熱乾燥法というインスタントラーメンの基本的製法を完成させました。1963(昭和38)年には、東洋水産から「たぬきそば」が発売されました。当時としては、この「インスタントそば」もまた、画期的な商品として受け入れられたと言います。1964年には日清食品の「日清田舎そば」、明星食品の「日本そば」が、翌1965年には東洋水産の「カレーうどん」が、さらに1966年には東洋水産の「ざるそば」と「かけそば」、1967年には明星食品の「深大寺そば」「東京茶そば」、東洋水産の「かけうどん」「きしめん」が登場しています。1970年には東洋水産が「天ぷらそば」を発売。これらはすべて袋入りの即席麺でしたが、1970年代に入ると、1971年に日清食品から「カップヌードル」が発売されたことが切っ掛けで、和風麺もカップ化へと突き進んでいきました。そしてインスタントの和風麺は、ほとんどがカップ商品になってしまったのです。
 

 最初に登場したのが、1972年の日清食品が発売した「カップヌードル天そば」。最初のカップ和風麺は、実はカップヌードルから始ったのです。この年は浅間山荘事件が発生したのですが、そのテレビ生中継は視聴率80%を記録したそうです。そしてこの時、現場に詰めていた機動隊員が食べていたのがカップヌードルでした。これを見た多くの国民がカップヌードルの存在を知り、それは爆発的売れ行きに繋がったそうです。その年にカップヌードルタイプのインスタントそばが生れたのでした。1975年、今度は東洋水産が、「マルちゃん・きつねうどん」と「マルちゃん・天ぷらそば」を発売します。この2商品は、後に同社の中核商品に成長して、「マルちゃん赤いきつね」と「マルちゃん緑のたぬき」となりました。翌1976年、「カップヌードル」でカップ化の波を起こした日清食品から、どんぶり型への進化が見られました。「日清のどん兵衛」がそれです。翌1977年には、「日清のどん兵衛天そば」が登場しました。うどんは必ずドンブリで食べるという日本人の習慣を再確認したこの商品は、当時のカップめん市場で大ヒットしました。その2年後の1978年、今度は東洋水産から「赤いきつねうどん」が登場。これには、一度聞くと忘れない商品名、脳裏に焼きつくようなCM、つい思い出してしまうCMメロディーが効を奏したと言われます。そして2年後の1980年、東洋水産は「赤いきつね」に続いて「緑のたぬき天そば」を発売しました。

 

 このようにインスタント麺は、乾麺→袋麺→カップ麺→ドンブリ麺というような形の変化をしてきています。この先どんな進化があるのか、若い人達には大いに楽しみなところだと思います。

 

 庵主はこだわりを持たない主義ですので、どんな形態のものであれ、「おいしければそれでいいじゃん!」と思うので、乾麺であれ、インスタントそばであれ、大いに食べてもらえば、日本そばの伝統は引き継がれていくと思うのですが、そば通の方々はこのような風潮に眉をひそめているのかもしれません。ですが、庵主も年齢のせいか、カップ麺やドンブリ麺には縁が余りなく、もっぱら自分で打つ生麺や、蕎麦屋の蕎麦を食しています。なぜならばそれは、単なる栄養としての食事ということではなく、心から日本の伝統文化である‘そば’を楽しみたいと思うからです。特に自分で粉を選び、自分で打ち、自分で味わうことのできる食品は他に余り見当たりません。凝る人は自分でソバを育てるところからやっています。ある意味では自給自足を志向しているとも言えるでしょう。サラリーマンの間で1坪園芸が流行るのもそのような気分を味わいたいからでしょう。これほど原始的であって、また最高度に高尚な趣味は他にないと思うのです。ですから自分で打つそばがおいしいのは当たり前のことであり、それを他人が食べておいしいかは問題ではないのです。よく四段の人の打つ蕎麦はおいしいと勘違いしている人がいますが、絶対的な蕎麦のおいしさは、ソバ・挽き・ブレンド・四立て・打ち・茹で、で決まるものであって、段位は余り関係ありません。多少下手くそでもソバさえ良ければおいしい蕎麦は打てるのです。そういう意味で、庵主はそば打ちの腕にはこだわりませんし、それを高く評価もしないのです。またそばがインスタントかどうかということにもこだわらず、そばなら何でもおいしく食べるよう心がけています。

 

 そばの世界は一方では機械化・インスタント化に進んでいるのですが、他方では素人打ちも盛んになっています。手打ちブームは10年ほど前でしたが、今でもそれは続いており、どこのそばの会でも熱気に包まれているほどです。これは日本の食文化が継承されるという意味で大きな意義があることですし、素人そば打ちを目指す人にとっても大いに自慢できることです。そして打ったからには多くの人に食べてもらわなければならないことから、近所や親戚にも配る必要が出てきて、その結果として親戚同士の交流が盛んになり、また多くの新しい友人ができます。健康にも良い結果をもたらし、老化防止にはとても効果絶大です。たまにでもいいですから、ぜひそば打ちに挑戦してみては如何でしょうか。そのような場所を探しておられる人がいましたら、栃木県内であれば相談に乗れると思います。

 

B-A-3: ≪蕎麦屋≫

そばが江戸時代中期頃から江戸を中心に広まり、1860(万延元)年には江戸府中の蕎麦屋は3763店を数えたと≪そばの歴史≫にも書きました。当時の人口は正確にわかりませんので、‘江戸百万都市’という言葉を借りて計算すると、266人当たり1軒の蕎麦屋があったことになります。

 

現代では東京に登録されている蕎麦屋の店舗数は2014年統計では3200軒とされており、江戸時代よりも少ないのです。これは飲食店が他にも沢山あることや、そば文化が衰退してきていることが原因と思われます。関東大震災以前は各町内に一軒もしくは二軒の蕎麦屋があるのが普通だったそうです。上記と同じ計算をすると、2014年統計では4172人当たり1軒の蕎麦屋があるという計算になります。

 

江戸時代(1600-1868)の蕎麦屋は江戸時代中期頃から始まっており、会席料理や鰻屋に比べると安価で庶民的でした。江戸にあった数軒のうちの1軒が1642(寛永18)年から店を構えていたとされています。屋台形式の移動店舗は江戸時代後期の1664(寛文4)年に生れたと思われます。特に夜間の屋台販売を代表する存在になっていたようです。これらの屋台形式の蕎麦屋は、時代や業態によって「二八蕎麦」・「夜鷹蕎麦」・「風鈴蕎麦」などとも呼ばれたそうです。

 

武家や公家など人々は人目につく蕎麦屋で外食する機会がなかったことから、そば切り(切り蕎麦のことをこう称する)は余り食べなかったと思われますが、あるいは出前で食べていたかもしれません(庵主の想像)。出前では岡持ち(おかもち)と呼ばれる取っ手のついた箱型の道具が用いられ、たいていは店の使い走りが蕎麦を出前し、後で丼やせいろなどの器を引き取りにゆくことが多かったようです。

 

武家への献上品としての記録はいくつも残っていますし、大名自らが転封の際にそば職人を連れていった記録がいくつか残っています。保科正之の「高遠(たかとう)そば」は有名な事例で、正之が会津転封となったときに一緒に連れて来た蕎麦打ち職人によって会津に広められたもので、正之が初めて藩主となった高遠藩(現在の長野県伊那市高遠町)に由来して「高遠そば」と呼ばれたのが由来です。長野の地名が福島県会津地方のそばの名として定着したとはおもしろいものです。「出石(いずし)そば」は、兵庫県豊岡市出石町を中心に食されている郷土料理の蕎麦ですが、江戸時代中期の1706(宝永3)年に信濃国上田藩より但馬国出石藩に国替えとなった仙石政明が、蕎麦(信州そば)職人を連れてきたことに始まるとされています。現在は割り子そばの形をとっており、「出石皿そば」という名前の郷土そばとなっています。会津の大内宿や‘そば切り’発祥の地とされる本山宿(現・長野県塩尻市)などの参勤交代に使われた街道の宿場でも大名への献上品としてそばが振る舞われています。将軍家に献上された武鑑の記録などにも‘そば’が登場します。これらのことから、武家も邸内でそばを茹でて食べていたのかもしれませんね。

 

よくテレビドラマの時代劇でも、蕎麦屋に出入りする武士が描かれていますが、これは江戸中期か後期のことのようです。というのは、赤穂浪士の一人で足軽身分であった寺坂信行が書いた『寺坂信行筆記』には、1703(元禄15)年12月14日の赤穂事件の折、集合場所に向かう前に「亀田屋」という店で数名が蕎麦切りを食べたと記されています。家督や作法を重んじる必要の無い下級武士や浪人は、この頃には蕎麦屋に出入りしていたようです。また江戸時代後期の1843(天保14)年に書かれた『三省録』に、「“武士は食わねど高楊枝”さながらに、かつては生活が苦しくとも旗本となれば蕎麦屋で食べることなどなかったが、最近では食べるようになったようだ(現代語訳)」という記述があり、庶民の‘そば’が高い位の武家にも伝わっていった様子が窺がわれるからです。

 

これらの理由には、そばは安い食事であったこと、白米を食べていた武家や公家に脚気が多く、そばを食べていた農民にはそれが少なかったことが理由であろうと思われます。江戸の病」と呼ばれる脚気は白米による病気ですが、玄米や麦飯を食べていた庶民は恐らくこれが少なかったはずです。それはそばを食べていた庶民にも共通することであったと思われることから、「江戸の病」というのは実はごく一部の武士階級や公家階級だけの病気ではなかったかと庵主は考えています。それが大きく取り上げられたのはやはり世の有名人がこの病気に掛かることが多かったことで注目されたのでしょう。

 

江戸時代の蕎麦屋では、注文を受けてからそばを打つことも多かったようで、それを待つ間に必ず酒を飲む習慣がありました。そこでこの酒のことを「蕎麦前」と呼ぶようになりました。言ってみれば蕎麦屋は居酒屋をも兼ねていたのです。そしてツマミとしてそばメニューの種物(たねもの)の種だけを酒の肴として供する「抜き」や蒲鉾(板わさ)・わさび芋・焼海苔・厚焼き玉子・はじかみショウガと味噌などが供されました。また店によっては、蕎麦を油で揚げた揚げ蕎麦が用意されている場合もあります。これは「箸休め」(おつまみ)、あるいは「乾き物」として酒肴にされましたし、現代でもこれらの一部を供する店もあります。酒でほろ酔い機嫌になったところへ出される蕎麦は、現代における飲み屋の仕上げにラーメンという構図とよく似たところがありますね。

 

江戸の食文化ともなった蕎麦屋ですが、関西の食文化である‘うどんが取り入れられていったのがいつ頃からなのか、庵主にはわかりません。どなたかご存じでしたらお教えください。現代では蕎麦だけを扱う蕎麦屋よりも、蕎麦とうどんの両方を供する店の方が多いように思われます。一般に男性は蕎麦を好む人が多く、女性はうどんを好む傾向があるようです。その両方の要求を満たすために、必然的に両方を扱うようになったのかもしれません。

 

戦後は出前をする蕎麦屋が多かったことは今の若い人は知らないことでしょう。自転車やオートバイを利用することも多く、高く積み重ねた蒸籠(せいろ)を曲芸さながら肩に担いで片手でハンドルを握る姿は、当時の蕎麦屋の象徴でもありました。寅さんシリーズの映画の中で、寅さんがそばの出前をしている自転車とぶつかり、道路がそばだらけになるというシーンを見たことがありますが、これはかなり古い映画の中の一本だったのかもしれません。

 

立ち食いそばが登場したのは江戸時代の屋台からです。それがチェーン店として急拡大したのが何時からなのかは、調べたのですがわかりませんでした。駅そばが最初なのか、駅前の立ち食いそば屋が最初なのか、興味のあるところです。いずれにしてもこれによってそばを食べる伝統はかなり維持されたと考えています。幸いなことに駅のホームで始められた蕎麦店(駅そば)は洋食化の傾向に歯止めを掛けたのではないかと考えています。忙しいサラリーマンや学生にとって、通勤・通学の途中で安くて早く済ませられる立ち食いそばは絶好のファーストフードだったのです。これがあったからこそ、日本人は蕎麦の味を忘れることはありませんでした。

 

一時は立ち食いそばに象徴されるように蕎麦食は安価なものとして続いてきましたが、ここ20年ほどで逆に高級食としての位置付けがされるようになりました。それは外国産の粉を使った機械打ちの安い蕎麦に飽き足らなくなった人が、国産粉を使った手打ちそばを指向し始めたからではないかと思っています。人件費が高騰してきたこともこれに拍車をかけ、そば打ちには手間が掛かることから値段も高くなり、出前も無くなりました。つまり蕎麦食が2極化してきたと言えるでしょう。庵主は蕎麦である限り、それがドンブリ型インスタントそばであっても、立ち食いそばであってもこだわりなく食べます。それぞれ別の調理物として捉えるからです。ソバを主材料としているのですから、新しいそば文化も大事にしていきたいと思っています。ですが、自分が手打ちを始めたこともあり、残念ながら新しいそば文化に触れる機会はほとんどありません。どなたか、こだわりがない人がいましたら、ぜひどこのインスタントそばがおいしかった、とかいうような感想で結構ですから、一報をお寄せください。また全国の蕎麦屋でおいしいと思ったところがありましたら、これまた貴重な情報ですのでご一報くだされば幸いです。ただ、食するときの腹の空き具合や、店の雰囲気などが食味に大きく影響することは確かですから、そこを差し引いて客観的に判断することはとても難しいことです。庵主は自分の感覚に照らして、「おいしいものはおいしい」と判断するだけです。

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